ブックタイトルスポーツ山形100号

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概要

スポーツ山形100号

??????????創刊のころ深瀬智創刊2号の「編集ノート」に、編集長の石川清秀先生(注)は、創刊することより、それが2号、3号と続いてこそ一人前だと述べられている。それが100号を迎えられたことは驚嘆しつつお祝を申しあげます。創刊された昭和52年当時は、本県のスポーツ界には数多くの課題がありました。ひとつは競技力の向上であり、施設の整備拡充・指導者の養成確保、地域スポーツの振興も大きなテーマでした。これらの課題を解決するには、多くの県民の力をはじめ、企業・学校・市町村の理解と協力なしでは実現できないと考えました。「スポーツ山形」は本県のスポーツの現況を広く県民に周知するため、指導者の養成、加盟団体の活動状況、まちの生涯スポーツの実践状況、体協人の紹介など盛り沢山の内容になりました。さて8号では「山形国体の招致を成功させよう」のキャンペーンが掲げられました。この年の宮崎国体で天皇杯29位と躍進したとあります。46号は「べにばな国体」の特集で写真が踊っていました。100号が県体協の広報のはじまりだと私は確信しております。(注)初代普及委員長創刊号発刊の思い出金村勲「スポーツ山形」が創刊された昭和52年、私は県教育庁体育保健課(現スポーツ保健課)の指導主事として課内にあった県体育協会事務局業務を兼務しておりました。当時、県のスポーツ広報係はなく、これからのスポーツの普及振興には広報活動が極めて大事であり、県として広報紙を発行できないかと考えました。上司に相談したところ予算面で難しいとのことでした。(相当なバトルがありました)そこで、県体協として発刊できないものかと、普及委員長の石川清秀先生と委員の深瀬智先生(山形市印役町在住)にご相談したところ、賛同を得て広報紙発行の動きが加速しました。編集の主たる担当者は深瀬先生です。先生は多才でその後、国体選手団のボウシやユニホームのデザイン等多面的に体協活動に寄与していただきました。翌昭和53年は、本県で初めて東北総体(ミニ国体)を開催した年であり、その実績と自信により、その後のべにばな国体開催の機運が高まった年でもありました。このたび、「スポーツ山形」が第100号発刊とのことですが、37年の歳月の積み重ねが大きな節目を迎えたことに関係した一人として嬉しく思っております。加えて、発行業務を脈々と受けついでこられた方々に敬意を表したいと存じます。県民総スポーツ振興の要である県体協の更なる発展を祈念しております。10スポーツ山形100